歴史・由緒
0465-34-7630
〒250-0045 神奈川県小田原市城山1-22-1
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〒250-0045 神奈川県小田原市城山1-22-1
歴史・由緒
大稲荷神社の由来伝記によれば小田原城北条時代に修験者が旧竹ノ花地区内に修験堂を建立した。
武田家の臣曲淵氏が主家滅亡後徳川家に随身この地を采地として賜り、修験堂に稲荷大明神をおまつりしたことに始まり、その後天正十八年(西暦一五九〇年)初代大久保忠世公小田原城主となり、京都伏見稲荷大社の最北座田中大神を合祀し信仰ことに篤かったが、子忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易となり、それ以来永年に亙り祭祀するものも無く荒廃にまかせた。
貞亭三年(西暦一六八六年)忠朝公小田原に帰藩が許され、その子忠増公の時に家臣清水氏の妹並びに側近内芝氏に御神託あり、その御告げに従い小田原城の鬼門除稲荷として再興したため、忠増公には老中執政職に昇進その御神徳の崇高広大にしてそのあらたかさに恐懼感激し、宝永三年五月(西暦一七〇六年)現在地の谷津山に御社殿を造営せられたものである。
※宝永八年(西暦一七一一年)四月 正一位神位宣命、正一位大稲荷大明神と奉称
※同 八年五月 忠増公は社領七十石寄進
※明治の御代には常宮昌子内親王(明治天皇第六皇女)・周宮房子内親王(明治天皇第七皇女)の両殿下が御用邸御滞在の折にしばしば正式・略式の御参拝をせられ、社前の左右に夫々松樹をお手植えせられた。
※元宮の神紋は行者輪宝で当地方唯一の春日造で屋根は桧皮葺である。その覆屋根は昭和六十二年に銅板葺にしました。
「新編相模国風土記」によれば錦織明神社、古験者火定せしを祀り西郡明神と唱う。慶安年中、領主の命により、今の字に改めしと云う。例祭十一月十七日、神体は修験者の形なり。町内持。とあり、もとは須藤町の「かどや」の隣にあったものを大正三年に境内に遷座した。
寛永十年(西暦一六三三年)正月二十一日の大地震により小田原城は大破、領内の足柄上下は特に被害甚大であった。小田原藩主稲葉美濃守は領内の復興のため過酷なる年貢を取り立てた。農民は塗炭の苦しみに喘ぎ暴動を起こしかねない状態になった。この時に上郡関本村名主下田隼人は一家の全滅を覚悟の上で年貢の軽減を藩主に直訴をし、万治三年(西暦一六六〇年)一二月二十三日処刑されたが隼人の一念は見事に達成された。
生前隼人は城下に出向いた時には須藤町の郷宿を定宿としていたため、須藤町の人々と自然親密な関係にあった。そこで町内の人々は共に西郡の為に身を投じた隼人の義侠を徳として、比の社に秘に併せ祀ってきたものである。
御祭神 錦織大神
下田隼人命
例祭 十一月十七日
「新編相模国風土記」によれば、旧谷津村の守護神であった。
天平宝字年間(西暦七五七年)、夢中道人の創建で愛宕山(小田原駅西口にある山)の山上にあった。本地勝軍地蔵は夢中道人の自作と云われている。
元暦中、蓮上院の僧堅雅再建。暦応二年(西暦一三三九年)足利尊氏建立。現在の社殿は本殿のみが大正末期遷座されているが、江戸に幕府が開かれた時に、拝・幣殿を江戸の愛宕山に移築してしまい、本殿のみが残されたものであると伝えられている。
御手洗石には講中江戸赤坂田町五丁目と刻まれている。
御祭神 火乃迦具土神
例祭 三月十九日
北条時代
一五八二 天正一〇 修験者が旧竹花地区に修験堂を建立
主家滅亡後武田家の臣曲淵氏が徳川家に随身この地を采地として賜わり修験堂に稲荷大明神をまつる。
一五九〇 天正一八 初代大久保忠世公小田原城主となり京都伏見稲荷大神の最北座田中大神を合祀
江戸時代
一六一四 慶長十九
二代忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易、それ以来永年に亙り祭祀するものもなく荒廃にまかせた。
一六三三 寛永一〇 大地震
一六八六 貞享 三 五代忠朝公小田原に帰藩が許された。
一六九八 元禄一一 六代忠増公小田原城主になる。
一七〇三 元禄一六 南関東一帯に大地震
一七〇五 宝永 二 幕府の依頼により宝永通宝の文字を書いた能筆家小田原藩士 樋口弥門他田中稲荷に盥盤「クワンバン」手水鉢を寄進
一七〇六 宝永 三 前年老中となった藩主忠増公が、小田原城の鬼門除稲荷として谷津山に御社殿を造営し、五月に完成遷座せられ、谷津村、竹花、須藤町、大工町の鎮守となった。
一七〇七 宝永 四 富士山大噴火
一七一一 宝永 八 正一位神位宣命、正一位大稲荷大明神と奉称
一七一一 宝永 八 忠増公は社領七十石寄進
一七一七 享保 二 藩主忠英、後の忠方公鶴の絵馬奉納
一七二三 享保 八 藩主忠英、後の忠方公鶴の絵馬奉納
一七五五 宝暦 五 庚申塔建立、佐久間茂右ヱ門他
一七八二 天明 二 大地震
一八〇五 文化 二 石灯篭寄進 蚫屋
一八一七 文化一四 竹花、須藤町、大工町、大火災
一八四九 嘉永 二 各町村による永代神楽の奉納
一八五一 嘉永 四 水田武次郎良温、算額奉納
一八五三 嘉永 六 大地震
一八五八 安政 五 舗石石阪大願成就石碑青物町丸屋
一八五九 安政 六 錦織大明神、嘉永六年二月稀成大地震に而御宮皆潰此度不残新規普請仕候
凡貮百両程相掛申候(原文)
明治時代
一八六八 明治 元 神仏分離令
一八九〇 明治二三 窪倉信房宮司の時、神輿新造、金参百拾円
一九〇一 明治三四 明治天皇の常宮、周宮両皇女が社前に黒松の樹をお手植なされた。
大正時代
一九一四 大正 三 錦織神社が須藤町より当社の幣殿東側の一角に遷座
一九二二 大正一一 愛宕神社本殿、現在地に遷座
一九二二 大正一一 関本の龍福寺に義人下田隼人翁彰徳碑建立
一九二三 大正一二 関東大震災
一九二六 大正一五 大震災復興記念碑建立、穐山秀次郎宮司
昭和時代
一九二七 昭和 二 神輿の前飾り新調
一九二八 昭和 三 御大典記念石灯籠一対建立、有志
一九二九 昭和 四 氏子有志により本殿玉垣奉建
一九三〇 昭和 五 社務所新築
一九三一 昭和 六 遷座した田中元宮に村田惣吉氏が覆殿を寄贈
一九三二 昭和 七 愛宕神社水屋新築
一九四五 昭和二〇 大東亜戦争終結
一九四五 昭和二〇 神道指令
一九五三 昭和二八 穐山廣胤宮司就任
一九五六 昭和三一 牛で曳くための神輿渡御車新調並びに格納庫の新築
一九六六 昭和四一 大正三年より須藤町、銀座で行って来た錦織神社の祭祀を大稲荷神社の主管とした。
一九七〇 昭和四五 愛宕山奥院の摩利支天社が蓮上院に移転
一九七五 昭和五〇 本殿屋根の葺替と復原改修工事
一九七五 昭和五〇 小田原市保存樹林指定
一九七九 昭和五四 社務所増築
一九八二 昭和五七 大稲荷神社氏子神輿会誕生
一九八三 昭和五八 拝幣殿改築工事 三千二百万円
一九八三 昭和五八 錦織神社幣殿より現在地に遷座
一九八四 昭和五九 先代穐山廣胤帰幽
一九八四 昭和五九 穐山喜代子宮司代務者に就任
一九八六 昭和六一 石綿進太郎氏神社本庁敬神功労賞受賞
一九八七 昭和六二 皇大神宮お木曳行行事参加
一九八七 昭和六二 昭和天皇御在位六十年記念楠植樹
一九八八 昭和六三 穐山光彰宮司就任
一九八八 昭和六三 愛宕神社他屋根葺替石段改修工事等、五百万円
一九八八 昭和六三 小田原市氏子総代会バス旅行、京都伏見稲荷他
平成時代
一九八九 平成 元 神輿百年祭
一九八九 平成 元 憩殿新築
一九九〇 平成 二 大嘗祭御殿見学と武蔵野陵参拝
一九九一 平成 三 嘉永四年水田良温作、算額復原奉納、天野宏氏
一九九一 平成 三 神社由緒書氏子中配布
一九九二 平成 四 下田隼人顕彰会結成田嶋辰夫会長
一九九二 平成 四 錦織神社例祭前に「下田隼人について」下田勝也氏の講演会、以後平成十四年に至る迄、三津木國輝、本多秀雄、石井富之助(代読)内田清の各氏より下田隼人と錦織神社に関する講演会開催
一九九二 平成 四 例祭後南足柄市龍福寺に墓参
一九九三 平成 五 初詣三の宮比々多神社に始まり平成十二年に至る迄毎年鶴岡八幡宮阿夫利神社等県内神社参拝旅行
一九九三 平成 五 皇大神宮お白石持ち行事に参加
一九九三 平成 五 親睦慶弔を主とする総代会の発足
一九九四 平成 六 清水盛太郎氏神宮大麻優良頒布従事者として神宮より表彰
一九九四 平成 六 朝倉修一氏の指導により境内樹木六十五本に説明板設置、市内ロータリークラブと氏子有志
一九九五 平成 七 大稲荷神社奉賛会発足により稲荷幟及び小田原提灯奉納
一九九五 平成 七 愛宕、錦織両神社の説明板の設置
一九九六 平成 八 久下猛則氏神社本庁敬神功労賞受賞
一九九六 平成 八 御神木(黒松)の伐採
一九九六 平成 八 社務所の増築
一九九七 平成 九 初午祭稲荷講に関田忠三氏御殿万歳を披露
一九九九 平成一一 愛宕神社の篝龍一対新調
一九九九 平成一一 谷津自治会により小田原駅西口ロータリー愛宕山下に愛宕神社跡地案内標識設置
一九九九 平成一一 境内地の説明板他設置
一九九九 平成一一 鳥居入口西側に倉庫新築
一九九九 平成一一 曲淵吉景(大稲荷神社創祭主)子孫、曲淵孝一氏例祭に初出席
一九九九 平成一一 和田義朗氏神宮大麻優良頒布従事者として神宮より表彰
二〇〇二 平成一四 文化の日松永記念館の絵馬展に四点出品
二〇〇二 平成一四 小田原義民伝(下田隼人)万治三年一揆が劇団こゆるぎ座により小田原市民会館にて上演
二〇〇三 平成一五 宮司二級進級奉告祭
二〇〇五 平成一七 遷座三百年祭準備
二〇〇五 平成一七 第一回錦織商業まつりが、錦通り銀座、竹花の商店会合同で開催
二〇〇六 平成一八 遷座三百年祭、十月二十九日
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